花まつりと卯月八日
四月八日は、お釈迦様の誕生日です。
紀元前5世紀頃、現代のネパール、ルンビニでゴータマ・シッダールタ、「お釈迦様」はお生まれになりました。誕生日は、インド暦で2月25日でしたが、中国に渡ったとき暦のギャップを換算して4月8日とされました。
「釈迦」が名前ではなく、名前は「ゴータマ・シッダールタ」で「ゴータマ」は最上の牛という意味、「ゴータマ」は目的を達成する人という意味があります。
お釈迦様と呼ばれるのはシャーキ族(釈迦族)の皇子であるからという説が有力です。
父は国王のシュッドーダナ、母は王妃のマーヤーで、国王の皇子としてお釈迦様は生まれます。生まれて7日後に母が亡くなりますが、母の妹であるマハー・プラジャパティーが親代わりとなり、国王にも愛され育ちます。
16歳で結婚、19歳で跡継ぎにも恵まれます。しかし、人々が老いて、病気になり、死ぬという現実に苦しみ、妻子を残して出家します。
その後、仙人に弟子入りし、6年も苦行を行いますが納得できず、仙人の元を去ります。長い間の苦行のため体はやせ細り途中で倒れてしまいます。
その時スジャータという村娘に乳粥を施され助けられます。
「琴の弦はきつく締めすぎると切れてしまうが、緩く締めると音が悪い。琴の弦は、適度に締めるのが望ましい」というスジャーターの歌を聴いた釈迦は、苦行が間違っていたことに気がつきます。
そして菩提樹の元で瞑想をしている時に悟りを得たのです。
お釈迦様は悟りを得てから、まず苦行を共にした5人の仲間に教えを説き、
5人が弟子になります。この瞬間仏教が開経したと云われています。
それから、45年間お釈迦様は80歳で亡くなるまでインドの各地を歩き布教活動を行います。その教えがアジアに広がり、日本にも伝わりました。
ちなみに神戸市灘区の「摩耶山」は空海が忉利天上寺にお釈迦様の生母摩耶夫人像を安置したことに由来します。
お釈迦様の誕生日の行事を「灌仏会」「仏生会」「降誕会」など云われています。
草花で飾った小さなお堂、花御堂に釈迦誕生仏を安置し、参詣に来た人たちは、釈迦誕生仏に甘茶をかけて拝むのが一般的です。
甘茶をかけるのはお釈迦様が誕生した際、天から9匹の竜が現れ、「甘露の雨」を降らせたという伝承が由来といわれています。
さて、お釈迦様の誕生日とは別に「卯月八日」と呼ばれる民間行事があります。
民間では、春から初夏の頃、農事や山野での本格的な活動時期を迎えることから、飲食をして春季到来を祝ったり、先祖供養を行ったりしていました。
西日本では「天道花」の風習がありました。山で採ったツツジ、シャクナゲ、卯の花などを竹竿の先につけて庭先に立てます。「高花」「八日花」とも呼ばれ、太陽に供える、月と星に供える、お釈迦様に供える(灌仏会との繋がり)、仏に供える、など地域によって様々な言い伝えがあります。山から花を採ってきて庭先に立てる行為は、お正月の門松を連想させます。まさしく門松のように、神の依り代という意味合いがあります。
先祖供養ということでは、兵庫県氷上郡では嫁いだ娘が墓参りのために里帰りする日となっています。
この日に山開きする地域も多くあり、この一年に亡くなった家族の名を山に登って呼んでくるという死者供養を行う地域もあります。亡くなった人の霊は、やがて祖霊に変わり、山に宿し、山に降りてきて山の神、農耕の季節には、山から降りて田の神、氏神となるという、日本古来の祖霊信仰と結びついています。
東日本では、この日は農事を忌んで(いんで・忌み嫌うこと)休日としていました。
このように、卯月八日は地域によって様々な行事が行われていたのです。形はちがっても、卯月八日は山の神をお迎えするという思想が根底にあったのでしょう。
節分が過ぎ、新しい一年が始まり、弥生(三月)の声が聞こえると、雛祭り・上巳の節供が巡ってきます。その頃になると、桜も咲き、各地で花見も盛んになります。
さくらを愛でながら、田畑の豊作を願い、祝う。いわば花の下での宴会は予祝行事でもあります。
弥生、卯月になると暖かくなり、人々は山や海に出かけます。山遊びと称して、山に登る、また潮干狩りなどは山や海での精進潔斎でした。この後に田の神を迎えて行う農事という、大事な祭りのために心身を清めておく。
卯月八日の儀礼も、農事の前に精進潔斎で身を清めるために山に入ったと考えられ、そこにお釈迦様の誕生日が合わさって「花まつり」の儀礼となりました。
卯月八日にはユニークな習俗もあります。
「ちはやぶる 卯月八日は吉日よ、神下げ虫を 成敗するぞ」と紙に書いて、戸口などに貼っておくと虫よけになるといいます。
入学式
四月は日本は入学のシーズンでもあります。
本来、明治から大正時代の日本では、大学は9月入学でした。
1886年(明治19年)酒造税に「4月-3月制」が導入されました。
1889年会計法制定により「4月-3月制」が法制化に合わせて、各市町村、翌年に
は道府県でも実施されることになります。
これらに伴い、学校運営資金を政府から調達するために、国の会計年度の始
まりに合わせて1888年に師範学校や小中学校で4月入学が広がります。
1920年(大正9年)には東京帝国大学が次年度から4月入学に変更して、
他の高等学校も追随し、1921年には全ての学校が4月入学になりました。
日本での「学校」の歴史をみておきます。
平安時代に貴族の子供の教育機関として「大学寮」がありました。
空海は身分や貧富に関わりなく、あらゆる思想や学芸を総合的に学ぶことのできる
教育施設をの設立を提唱しました。
そして、828年には藤原三守の邸宅を譲りうけ「綜芸種智院」を開きます。
「綜芸種智院」は庶民にも門戸を開いた画期的な学校といえます。
江戸時代には身分ごとに武士としての教育と農民ちそての教育の二重の系統
が見られます。18世紀半ばには藩士の教育のために藩校が置かれます。
一部の藩では藩内の庶民教育も対象としていました。
庶民の教育は、日常的な礼儀作法、地域社会のルール、家職の技術などを
中心に家庭教育が主でした。しかし、中期になると貨幣経済が発達し、商人は
読み書きそろばんの基礎教育が必須となり、農民も栽培や販売のための
一定の知識が必要とされ、全国に「寺子屋」と云われる教育施設が多数生まれ
ます。
寺子屋の起源は、中世の寺院での学問指南に遡ると言われます。
幕末の安政から慶応にかけての14年間に年間300を超える寺子屋が開業しています。大小含めて全国に16560軒の寺子屋があったそうです。
明治に入り、1872年に学制が敷かれます。
江戸時代ないし明治初期における日本の識字率は世界でも高い水準でした。
1850年頃の就学率はイギリスで20-25%、フランスで1.4%、ロシア帝国の
モスクワで20%ですが、日本では70-86%でした。
数のしきたり 七
洋の東西を問わず、「七」は聖なる数と考えられてきました。
旧約聖書では神が六日で天地を創造し、七日目は安息日として聖なる日と定めました。
東洋でも古代から農作業の時期を計るため天文学が発達し、北極星と北斗七星を季節を知る指標とし、北極星と北斗七星に対する信仰が生まれました。
月も七日ごとに様相を変えます。細い三日月から七日たつと半月形の上弦の月となり、さらに七日経つと満月になります。古代の人々はこの月の変化を尺度とし暦の基準としてきました。
お七夜、初七日、四十九日など七日を基準としています。
・「お七夜」に赤ちゃんの命名式を行う
平安時代には生まれた日を「初夜」、三日目を「三夜」五日目を「五夜」
七日目を「七夜」九日目を「九夜」と奇数日に「産たちの祝い」を行っていました。
それが「七夜」だけが残りました。それは江戸時代、将軍家に子供が生まれると
七日目に諸大名がお祝いの品を贈るのがならわいとなり、その時に名前を
発表するようになったのです。
「七」にまつわることわざ
・男は敷居をまたげば七人の敵あり
・七度尋ねて人を疑え
・無くて七癖
・七転び八起
・兎も七日なぶれば噛みつく
