感性を育む和学講座第49回【菊池教室】2025/3/12

~春分の日 桜の変遷~
春分の日
 日本の祝日の一つです。祝日法により天文観測による春分が起こる日です。
「春分」とは太陽が、天の赤道を南から北へ横切る点を春分点といい、ここを通過するのが春分です。
 天の赤道とは地球の赤道面を天球にまで延長し、天球上に交わってできる大円のことです。太陽の通り道は黄道といい、春分点は黄道と天の赤道が交わり、黄経(黄道を360度に分けたもの)0度となります。要するに春分点が起点となります。

「春分の日」として祝日になは1948年に制定されました。「自然をたたえ、生物をいつくしむ」が趣旨となっています。ただ、休日としては1878年(明治11年)「春季皇霊祭」から引き継がれています。
 そして、春分の日は春のお彼岸の中日です。お彼岸は春分の日、秋分の日を含む7日間です。「彼岸」とはサンスクリットを漢語に意訳したもので、仏教でいう悟りのことです。
お彼岸の最古の記録は日本後記に記されている、「延暦25年(806年)、早良親王(光仁天皇の皇子。謀反の疑いで死去)のために春分、秋分を中心とした7日間お経を転読させた」という記録です。
 昼と夜の長さが等しいと考えられていますが、実際は昼が夜より長くなります。
 春分、秋分にお墓参りをする慣習は日本だけです。日本人の太陽信仰と先祖崇拝が結びついた習慣と言えるでしょう。

花と日本人
「うめは咲いたか、さくらはまだかいな」 
「うめ」と「さくら」は日本人が最も好きな花です。「うめ」は春の訪れを知らせてくれます。原産国は中国ですが、日本に入ってきたのは弥生時代、または奈良時代に薬木として遣唐使が持ち込んだという説もあります。
「うめ」の語源は「うむみ(熟実)」、燻し梅の「烏梅(うばい)」などがあります。平安時代以後は「ウム」と呼ばれていた時代もあります。

ちなみにやまとことばで紐解くと、「ウ」は内実、「メ」は可愛らしいものを表したりするところから「愛らしい花が心を癒してくれる」と解釈できます。
奈良時代から平安時代初期までは、貴族階級ではうめの花が愛でられています。
『万葉集』には118首におよぶ「うめ」を題材にした和歌が納められております。「さくら」を題材にした和歌は44首にすぎません。

、大宰府の長官、大伴旅人の邸宅で開かれた宴会(梅花の宴)で梅を題材にした32首の歌が『万葉集』に収録されています。それが基に『令和』の元号が制定されました。
また、奈良時代から平安時代は唐文化の影響が強かったので、「花」といえば「うめ」を指していました。
平安時代の政治家であり、学者であった菅原道真は梅をこよなく愛していました。
大宰府に左遷されるとき、「東風(こち)吹かば におひおこせよ 梅の花 主なしとして 春な忘れそ」((春になって)東の風が吹いたならば、その香りを(私のもとまで)送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからとい
って(咲く春を忘れてくれるな)と詠んでいます。飛梅伝説は、この歌を聞いた梅の木が、菅原道真の後を追って大宰府まで飛んでいったという話です。


菅原道真は大宰府で非業の最後を迎えます。その後、京の都では、清涼殿に落雷があり、朝廷要人に多くの死傷者が出ました。また藤原一族の不幸や、醍醐天皇が崩御したことは菅原道真の怨霊が原因とされ、怨霊を封じ込める意味もあり、菅原道真は「天満大自在天神」として祀られます。そして、道真が愛した梅の木も植えられます。

「さくら」は歴史に翻弄された花といえるかもしれません。
 平安時代中期遣唐使が廃止され、国風文化(日本の歴史的文化の一つ。日本の風土や生活感情を重視する文化が加速されていきました。国風文化が育つに連れて、さくらの人気が高まっていき、その地位が特別なものになりま
した。

『古今和歌集』にある古墳時代の王仁(百済から日本に渡来し、論語を伝えた古事記に記されている伝承上の人物)の歌とされている「難波津の咲くやこの花 冬ごもり 今は咲くやこの花」の「花」はうめですが、平安時
代の歌人紀友則(845年?~907年)の歌「ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花ぞ散るらむ」の「花」はさくらを指しています。

また、桜の美しさは大きく分けると盛り、満開の桜と散り際の桜の二点あります。
万葉集に詠まれたのは「見渡せば春日の野辺にかすみ立ち咲き匂へるは桜花かも」で、満開の桜です。
一方、新古今和歌集では「みよしのの高嶺の桜散りにけり嵐もしろき春のあけぼの」とあり、散り際の桜を詠まれています。

古来「さくら」は農事に関連していたとも云われています。「さくら」の「さ」は「田の神」を表し、「くら」は「座」を表しており、「さくら」は田の神が鎮座する神聖な木とされていました。さくらの開花は農業開始の指標とされていたとも言われています。
さくらは庶民の花のイメージがありますが、農村地域では「さくら」が特別な花であり、神格化されていたのがわかります。

西行法師はさくらを愛し、「ねがわくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ(願わくば、桜の下で、春に死にたいものだ。旧暦の2月15日ごろに。)」の歌は有名です。ちなみに西行法師は願った通り、2月16日に亡くなりました。
また、古来桜は女性のイメージ(男性が愛する女性を桜に見立てる)ですが、明治時代には「軍人、兵士」という男性イメージに転換しているという考えもあります。そして、最後には「お国のために潔く死ぬ」という特攻精神とも結びつけられました。

江戸時代にも満開になるとすぐ散るさくらに潔さを重ね合わせ、武士の生き方の象徴とされました。
江戸時代の国学者・本居宣長は「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」と詠み、大和心(日本の精神)はさくらの花に例えました。
「武士道」の著者・新戸部稲造の「日本人=サムライ」観、「桜=日本(国民性)の象徴」観は大きな影響を与えました。

特攻精神と結びつけられた桜は終戦直後には正視できないという日本人も多くいました。作家の城山三郎氏は2006年のインタビューに「いまだに気楽に眺められない」と語っておられます。
戦艦大和の生存者は「出陣前まだ蕾だった桜が、九死に一生を得て佐世保に帰ってきたときは満開に咲いていた。何人かが『俺たちが命がけで戦いみんな命を落としたのに何で桜が咲いてるんだ』と叫んでいた」と証言しています。
このように戦後しばらく桜は戦争の記憶を宿していました。
戦前、戦中には多くの歌に出てくる桜は、戦後昭和30年代までは流行歌には登場しませんでした。そして、伐採され人々の記憶から消された時代もあったのです。

桜の復興は昭和34年頃の高度成長期から昭和39年の東京オリンピック頃ではないでしょうか。
岩崎文雄氏は『桜の文化史』のなかで次のように述べています。   (前略)サクラは軍国主義的思想によって数奇な運命をたどってきたが、戦後50年以上も経て、 敗戦後の苦しみを知らない人たちが多くなるにつれて、暗いことを連想させるサクラから開 放されるべき時期がきたように思われる。この時期に到達した平成の現在こそ、我々はいま一 度、サクラと日本人の関係を見つめ直して、サクラの美しさに対する我々の感動のパターンを 次の世代に伝えなければならない。それが伝統に対する我々の責務であるように思われる。

哲学者の井上哲次郎(1856~1944年、哲学者、ドイツ留学を経て東京帝国大学教授)は「桜花」の中で次のように述べています。    「桜花は孤独的にあらずして集合的なり。集合的の花は独り桜花に限らずといえども、これを 蓮花もしくは薔薇に比すれば、ことにその相違の甚だしきを見る。(中略)いずれも個人主義を 表現する者の如くあり。独り桜花は大いにこれと異なり。(中略)桜花の長所はその集合的なる あり。一個一個の花よりは、一枝の花の集合体を以て優れりとなす。一樹の花よりは、全山の 花の集合体を以て優れりとなす。此の如きは我が日本民族の長処が個人主義にあらずして、む しろ団体的活動にあるを表現してあまりあるというべきなり36)。」


新渡戸と同じように、西欧を薔薇、日本を桜に例えています。また、新渡戸の『武士道』に見られなかった「集団主義」と「日本人」を結びつけています。
このように、さくら特にソメイヨシノは日本の歴史とともに変遷してきた稀な花と言えます。
  

数のしきたり六
「六」は安定した数といえます。二が三つに分けられますし、三と三、一と五と奇数にも分けることができます。
 仏教には「六」がつく言葉が多く見られます。
 六根清浄・・・人間に備わった「六根」を清めること
         眼根(視覚)耳根(聴覚)鼻根(嗅覚)舌根(味覚)
         身根(触覚)意根(意識・心)
 六大・・・・・万物を構成する六つの要素 地・水・火・風・空・識

 六道・・・・・地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道

人間が生きていくうえに欠かせない物、または人の生き死に関わることに用いられるのも「六」という数の安定性と関係しているのかもしれません。

六月六日は「お稽古日」芸事は六歳の六月六日に始めるのがよい

六日の菖蒲、十日の菊

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